切迫早産と言われようが子宮頸管が短かろうが子どもは元気に産まれる
新米イクメンブロガーのますみです。
子どもが産まれるまで、そして産まれてからは不安の連続です。
それはまるで正解もわからず進む、方位磁石のない航海のようなものだとぼくは思います。
息子が嫁のお腹の中にいるころ、子宮頸管が短いと医者に言われました。
子宮頸管の長さは3センチほどで、このままだと切迫早産の恐れがあると。
当時は妊娠7か月目で、子どものサイズは約1000グラムのころ。
その前には、不正出血があり二か月弱も絶対安静で過ごしたすぐあとでした。
ただ結果としてうちの子どもは、予定日の二週間前までお腹の中にいて、健康に3356グラムで生まれました。
どんな不安があっても"なるようになる"
今回はその当時のエピソードを話します。
子宮頸管の長さは本人にはわからない。
早産は、赤ちゃんが妊娠22週0日~36週6日の間に生まれることですが、切迫早産とはその一歩手前の早産しそうな状態になることをいいます。
引用:切迫早産とは?原因や症状、兆候は?予防法や治療法はあるの? - こそだてハック
切迫早産を例えるときは、風船がわかりやすいです。
大きく膨らんだ風船の口を、“手のひらで握る"のと"指二本でつまむ”のでは、どちらの方が空気が逃げないでしょう?
短いというのは、力を抜けばすぐにでも空気が逃げてしまう状態のことです。
この風船の口の部分が子宮頸管にあたるわけです。
この状態のやっかいな点は、自分では子宮頸管の変化はわからないということ。
嫁は絶対安静と言われ、身体は健康なのに寝続ける日々を送りました。
炊事洗濯も含め、外出すら禁止ですからね…。
ずっとぼくに申し訳なさそうな顔をしていました。
タイムリミット二週間での地方移住。
ぼくらがより大変だったのは、その状態で地方移住が控えていたこと。
この時点で、能登に行くことが決まってました。
ところが、飛行機の気圧の変化もふくめて、移動にあたって医者の許可が出せる日程はあと二週間。
産休育休の日程に合わせて、移住を考えていたので、家も仕事も何も決まってませんでした。
ぼくらは、全てを急ピッチで決めていき、仕事も家も引越しもぶっつけ本番でしたが、無事に終わりました。
残務処理などもありぼくは能登~東京を一か月の間に3往復しましたが、…人間なるようになりますね。
錠剤から点滴の切り替えで変化が起きる。
8月の中頃に医者から入院の話が出る。2センチ台の長さは変わらないままだった。ただこれに関しては悲観的なものではなく今後のことを考える上での入院。ようは錠剤で飲んでいたはり止めの薬を点滴で直接取り込むことで効果をあげようというのだ。
これは当時の日記からの引用です。
一週間の入院。
これで頸管がのびれば、切迫早産から抜けられるということで、先を見据えた形で入院しました。
ですがこれは入院中ずっと点滴をし続けるということ。
腕中が針の跡だらけの嫁の腕をみていたら辛くて仕方なかったです。
嫁は泣き言をいわず、ずっと耐えていました。
でもそのおかげで子宮頸管の長さが伸びて退院になりました。
長い長い絶対安静から解放されたときの気持ちは、言葉にできません。
出産は夫婦が人として成長するきっかけ。
出産までの時間は、長いようであっと言う間でした。
もうとにかく濃厚で、「よく無事に産まれたよね」なんて2人で今でも話題にします。
妊娠から出産までの経験は、夫婦が人として成長するきっかけなんだと思います。
どんな不安があっても"なるようになる"
切迫早産と言われようが子宮頸管が短かろうが子どもは元気に産まれます。
ますみ