子供を見てるとそのチャレンジ精神の豊富さに自分が恥ずかしくなる。
新米イクメンブロガーのマスミです。
ぼくは今月で33歳になるんですが、近ごろ子どもを見ていると
そのチャレンジ精神の豊富さがあまりに眩しくて、自分が恥ずかしくなります。
実は最近、息子が台所の扉を開けるようになりました。
いつの間にこんなこと出来るようになったんだろうと感心したんですが
包丁なんかも入ってるので、父や母としては、気が気じゃないですよね。
ただ手を挟んだり、つかまり立ちの不安定さで頭から転んだり、失敗も多くするんですが、
どれだけ怒られてもめげず、興味が出たものに一直線の姿が、ぼくは眩しく見えました。
今回はそんな子どもの興味への姿勢について思うことです。
与えられたものでは絶対に満足しない。
息子を見ていて、気付いたことですが
子どもは与えられたものでは絶対に満足しません。
たとえば、産まれたばかりの頃に好きだったおもちゃ。
それから寝返りうつまで、変わらずに大事にしていたはずなんですが、今では見向きもしなくなりました。
これは飽きたのではなく、おそらくぼくらが喜ぶからといって、グズったときや静かにしてほしいときに、絶えず与え続けた結果なんだと思います。
そりゃそうでしょう。
一つのものを大事にするという心も大事です。
ただ動けるようになると世界が広がります。
その中で沸き上がった興味は、息子の世界に絶えず刺激を与えてくれるわけです。
なのにぼくら両親が止まっている。ここまででいいだろうと決め付けてしまっている。
それじゃ与えられたものなんか興味がなくなって当然ですよね。
子どもの興味や心は、もう既にこんなところにいないわけです。
絶えず違うものに興味を持ち、自分の手でつかんだものを大事にする。
子どもを止めようとすること自体、親のエゴなのかなと感じました。
気付いたら出来てたわけじゃない。
冒頭での台所の話もそうですが、日中はぼくが仕事をしているため、どうしても面倒は見れません。
ところが帰ってくると、新しく出来るようになっていたことが増えていて、日々感動しています。
ぼくからすれば、気付いたらですが…
これ気付いたら出来てたわけじゃないんですよね。
息子が何度も何度もトライした結果、出来るようになったわけです。
立つこと1つとっても、何度も挑戦してます。何度も転んで泣いたりします。
一回成功すると、それを何度も繰り返して、完璧につかむまでやります。
その反復練習の賜物が、息子の新しいなんですよね。
子どもや赤ちゃんが単純だと、ぼくは思いません。
新しく興味を持ったものに対して、絶えず考えてるのがわかります。
なんでもかんでもただやってるわけじゃないんですよね。
ちゃんと考えながら成長してるんですよね。
自分にはこれが出来てるだろうか。
子どもを見ていると、今のぼくはこれが出来てるだろうかと不安になります。
毎日新しいことを覚えているか?
与えられたものだけで満足していないか?
そう問いかけたくなります。
これって子どものようにこれだ!って決めず、何でもいいんだと思うんですよね。
仕事じゃなくても遊びでもいい。
何か一つでも新しいことを毎日一個でも覚えようとしているか。
教えてもらったことや、出来ることで満足していないか。
子どもよりも、ぼくらには出来ることが沢山ある。
それなのにやろうとしてないことが、山ほどあるのもおかしいわけです。
興味は持つべき。
常に面白そうなこと探していたい。
それだけで人生はハッピーになると思う。
面白さや興味のアンテナは、絶えず探し貼り続けたいと思う。
息子が新しい何かを発見するような感覚で、より身近なところから探していきたい。
マスミ